鉄カーテンの楽園論

藤森かよこ編『クィア批評』の序論をとりあえず読んだ。

 
クィア批評
 
 
 
 
 
 
 

問題は、多数派に承認されることではなく、多数派の是認などなくとも少数派が生きることに支障のない環境の整備だ。すべての価値を多元的に認め合う人々が共存する寛容な社会を形成することは、私の人間観では不可能である。「何をやっているんだか…あの連中は」と互いに互いを思いつつ、潜在敵対的に共存しつつ、個人の自由な生き方が侵害されないし、侵害しあわないことが可能なシステム作りならば、人間にもできるだろう。要するに、冷戦状態こそが平和なユートピアなのではないか。
                   序章:リバタリアンクィア宣言(藤森かよこ)

 
もちろん現状では「個人の自由な生き方が侵害されないし、侵害しあわないことが可能なシステム作り」すらままならない状況なわけで、とりあえずそのような環境を確保することには異存はないのだけれど、それは全くユートピアではなく、通過点の一つに過ぎない。藤森氏の言うユートピア鉄のカーテンが完全に機能していれば問題がないのかもしれないけれど、カーテンが破れるきっかけはいくらでも存在するだろう。事実、冷戦下のソヴィエトでも西側の文化はアンダーグラウンドで流通した。そしてもちろん最後にはソ連は崩壊する。そういうものだ。そして、鉄のカーテンは破らなければならないのではないかと思う。森岡正博氏は巧妙に他者を排除した「無痛文明」社会は人間の生きる力を奪うものであるとして批判した。

 
少し考えてみれば、多数派の是認が少数派の生存に関わらざるを得ない局面はどうしても不可避なことがわかる。例えば安楽死だとか障碍児の中絶だとかを考えてみればわかりやすい(「思考可能であり、意志が伝達可能である」健康な多数者の外部に脳死者も位置し、少数者として考えることが可能だろう)。この時、多数派の是認を得ることが出来なければ、少数派の生存が脅かされる事態が生じる。この時、藤森氏の言う冷戦状態的ユートピアは簡単に崩壊するのではないだろうか。例えば森岡氏は『生命学をひらく 自分と向きあう「いのち」の思想』でこのように述べる。
 

「自分の子どもや血族に障害者が生まれるなんて、そんなはずはない、そんなことは私の人生設計にない」、こういうアイデンティティから逃れられない人は、障害児だったら、やはり中絶してしまうのではないか。だからいくら社会福祉が整えられ、金や人手が豊富にあったとしても、最後にアイデンティティの壁が残るのです。

 
藤森氏のように潜在敵対を個人的自由として放置してしまう限りこの問題は解決しない。
 
ここで思ったのはリバタリアン的思考というのは「個人的自由を潜在的に行使可能な」人間(性的マイノリティーも含む)には非常に都合がいいけれど、「そもそも個人的自由を行使不可能な」存在をともすれば排除してしまう冷酷さを持っているのではないだろうかということ。
 
クィア理論に関しては僕はほとんど知識がなく、きちんと勉強しようとしてこの本を手に取ったのだけれど、序論の藤森氏の言葉でいきなり驚いてしまった。クィア理論が性的マイノリティーに焦点を当てているだけに、その外部のマイノリティーへの配慮に欠けている、なんてことはまさかないよな。「胎児期においてセクシュアリティーが決定される」なんてことが強く主張されるようになったら、中絶の問題はクィアにとっても他人事ではなくなるのだから。
まだまだ、序論だ。順に読み進めていこう。