平成教養主義のひと(インタープリット・インタープリター)

土曜日のこと。
科学技術インタープリター養成プログラムの説明会に参加するために駒場から本郷へ移動。
地下鉄本郷三丁目の駅を出ると、突然の大スコール。傘がない。時間もない。行かなくちゃ大学に行かなくちゃ雨に濡れて行かなくちゃ傘がない。ずぶ濡れになって説明会場へ。
去年は立ち上げに当たって立花隆氏などが関わり大々的な宣伝が行われたこともあって、10人の合格枠に対し、100人以上が説明会に参加し、42人が願書を提出したらしいが、今年は2年目ということで人気は落ち着き会場に集まったのは30人ほど。入試そのものは大分楽になるのではないだろうか。
しかし、研究時間を削り、プログラムを受講して、果たして、メリットがあるのか、どうか。かなり微妙なラインだ。僕にとっての最大の魅力は、瀬名秀明*1に指導を受けられることだけれど、瀬名さんの文章自体に魅力があるかというとそうでもないようなごにょごにょ、てところがまた微妙さを増幅させる。
いつのまにかシャツは乾いていた。
その夜、テレビで小林康夫先生と爆笑問題が「教養」を巡って議論をしていた。
教養を上から教えるということに懐疑的な爆笑問題に対して、やはり「教養学部」の先生方は職業的なこだわりを捨て切れていないように感じた。
説明会でも、高名な先生方が科学技術インタプリターの必要性について熱弁していらっしゃったが、熱く語れば語るほど、当のインタープリターが語りかけるべき対象と離れていくような感覚を覚えた。語りの中で自らの立ち位置を調整する技術に長けた太田光のような人こそ科学インタープリターに相応しいのではなどなど。というか、インタープリターという名称からしてよくわからん。
僕自身「教養学部」というところで4年間を過ごしたのだけれど、何かを強く学びたいという動機は常に大学の外で得てきたように思う。「教養」とは何か、生きる上で如何に必要か、などと大上段に構えるのではなく、学びへの動機を抱いた人たちに足掛かりを提供してくれるような、そんな場が用意されていれば、それでいいと思う。
だとすれば「教養」というのは、自分が巨人の肩の上に乗っていることを自覚し、また、誰かが望むのなら自分の肩を貸す準備ができていること、その程度の意味に捉えておけばいいんじゃないだろか。

*1:『パラサイト・イブ』や『BRAIN VALLEY』が僕に与えた影響は存外無視できない可能性があるのかもしれないのではないだろうか。