スピッツ『さざなみCD』

と打とうとしたらサザン並みCDと出てきた。他意はない。
さざなみCD
スピッツの新譜。相変わらず出す曲出す曲当たり前くらいにいい曲ばかりで、逆に、そうですか、とひんやりした感想しか出てこなくなってしまった。
メロディは相変わらず冴え渡るように美しいし、彼らが課題としていた (僕はそうは思っていなかったけれど) バンドとしての音作りも各楽器の粒がしっかり立っていて、リズム隊も堅いし、歌詞も前向き。「いわゆる王道スピッツ*1満載、捨て曲なし、クオリティは近年の作品の中でも随一、といった口上でもって不特定多数の皆様にはもう自信をもってお奨めなのだけれど、宇宙の片隅の4畳半で鈴虫と戯れながらエロスとタナトスにまみれた篭った音を出していたスピッツはもうどこかに消えてしまったので、それが僕には寂しいのだ。それだけなのだ。僕だけなのだ。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と歌ったブルーハーツに憧れて始まったスピッツが「ネズミの進化」を歌う。進化というのはあくまで環境への適応であって価値判断は含まれないのだ、などとひとりごちる。近年の草野マサムネは普遍的な楽曲を志向しているようでそれは事実うまくいっていると思うのだけれども、彼が楽曲を制作する際に要する努力というのは初期のほうが大きかったのではないのだろうか。初期の楽曲群はほとんど本能で出てきてしまう美メロへの衒いから意識的なシュールと無意識の歪みとを加えて作り出されたと思われる。懐かしき熊楠的SFメタリック4畳半ビート・フォーク。獣姦はできそうにないけれど虫となら平気で交尾しているんじゃないかと思わせる世界観。今のようなポジティヴさはないけれど、うらぶれた景色や打ち捨てられた紙屑がそのまま宇宙の呼吸と響きあうような価値とスケールの捩れに満ち溢れていて、世界からの承認に背を向けていた中学生の僕は随分救われたものだった。普遍的名曲を量産するよりも、きっと、そういういじけてどうしようもない人間をちびちび救ったほうが功徳がでかいと思うのだけれど。
と色々愚痴を書いたけれど昔のスピッツは音源の中にしかいないので諦めたい、というか代わりに俺が作る、と思うし、次のアルバムが出てもどうせ繰言になるのでもう何も言わないことにしようと思う。それにしてもマサムネ氏は今作でもトビウオになったりネズミになったり大変です。トマス・ネーゲル氏は「コウモリであるとはどのようなことか」などと小難しい御託を並べる前に草野マサムネになればいいのに。
 
結局僕が好きなのはこんなの。

死に物狂いのカゲロウを見ていた
 
流れる水をすべって 夕暮れの冷たい風を切り
ほおずりの思い出が行く うしろから遅れて僕が行く
 
輪廻の途中で少し より道しちゃった
小さな声で大きな嘘ついた
 
殺されないでね ちゃんと隠れてよ
両手合わせたら 涙が落ちた
ひとりじゃ生きてけない
 
ピカピカ光る愉快な 顔の模様が浮かんだボールが
ポタポタ生れ落ちては こころの窓ガラスたたいてる
 
歩道橋の上から カンシャク玉をバラまいたら
空の星も跳ねた
 
死に物狂いのカゲロウを見ていた
時間のリボンに ハサミを入れた
ひとりじゃ生きてけない

*1:誰が言っているのだろう