論理が苦。克服計画始動。
哲学の授業と喫煙所でよく顔を合わせていたミスター・ロンリーもといミスター論理こと id:at_akada さんが論理学を切れ味鋭く振り回しているのを見て羨ましくなり、戸田山和久『論理学をつくる』を買った。この本をきっかけに akada さんは僕が到底届き得ないところまで突き進んでしまったようである。id:shinimai さんが楽しそうにお読みになっていたのにも影響されたようだ*1。
- 作者: 戸田山和久
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2000/10/10
- メディア: 単行本
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shinimai さんの読書メモは非常に詳らかで驚嘆するが、僕には根気がないので簡単な突っ込み程度で。詳しい内容の説明は shinimai さんのほうを参照下さい。
さて、第3章の練習問題 14 (2) である。
冷蔵庫を開けたら楽しみにしていたビールが消えていた。
「こんなことするのは兄貴かパパだわ。でも、もし兄貴が飲んじゃったんだったら必ずエダマメをおつまみにするはずだし、パパが飲んだのならマメは嫌いだからエダマメは残っているハズ。キャッ!エダマメもなくなっている。ということは兄貴が犯人ね!」
これはなかなか楽しい練習問題だ。いもうとによる推理を論理式で記述して妥当な論証かどうかを確かめる。戸田山先生の解答に従って「兄貴が飲んだ」をP、「パパが飲んだ」をQ、「エダマメが残っている」をRとすると、この論証は
前提
P∨Q
P→¬R
Q→R
¬R
結論
P
という形式を取っている。ここから
P Q R P∨Q P→¬R Q→R ¬R P 1 1 1 1 0 1 0 1 1 1 0 1 1 0 1 1 1 0 1 1 0 1 0 1 1 0 0 1 1 1 1 1 0 1 1 1 1 1 0 0 0 1 0 1 1 0 1 0 0 0 1 0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 1 1 0
という真理表が導かれる。前提( 4〜7 列目)がすべて真になる時 (赤字の 4 行目)、結論 (8 列目)も 1 となる。従って「兄貴がビールを飲んだ」は唯一の正しい推理となる。このとき、パパは犯人ではない (2 列目 Q の 4 行目の真理値は 0)。
名探偵いもうとの鮮やかな推理の結果、兄貴はいもうとから殴る蹴るなどの成敗を加えられ、その隣でパパはほっと胸をなでおろす、といった展開が十分に予想される。悪は正しく滅びたかのようである。しかしなにかおかしい。腑に落ちないのである。大切な何かが見落とされている。
じつは戸田山論理学*3に則ったこのいもうとの推理には重大な落とし穴があるのだ。彼女の推理の陥穽は、仮に兄貴とパパが二人でビールに手をつけた場合、前提「パパが飲んだのならマメは嫌いだからエダマメは残っているハズ」が成り立たないということを見落とした点にある。兄貴がエダマメをつまみにしながらビールを飲み、パパはエダマメに一切手をつけずにやはりビールを飲むという事態が起こり得るのだ。したがって論証における正しい前提は「パパひとりだけがビールを飲んだならマメは嫌いだからエダマメは残っている」、となるのだ*4。
「パパひとりだけがビールを飲んだならマメは嫌いだからエダマメは残っている」を前提として論証をやりなおすと前提は
P∨Q
P→¬R
(¬P∧Q)→R
¬R
となり、真理表は
P Q R P∨Q P→¬R (¬P∧Q)→R ¬R P 1 1 1 1 0 1 0 1 1 1 0 1 1 1 1 1 1 0 1 1 0 1 0 1 1 0 0 1 1 1 1 1 0 1 1 1 1 1 0 0 0 1 0 1 1 0 1 0 0 0 1 0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 1 1 0
となる。このとき、驚くべきことに正しい論証は二つの可能性を残すのである!赤字で書かれた列は先ほどの論証と同様に兄貴ひとりが犯人である場合である。しかし青字で書かれた列は兄貴に加えパパまでもが犯人であることを示している。二つの可能性を考慮すると、兄貴がビールを飲んだことは確かに間違いないのだが、パパを放免するのは詰めが甘い。兄貴がビールを飲めば必ずエダマメに手を出すことを初めから知っていて、その事実を用いていもうとの推理を攪乱せんがために、パパが兄貴をそそのかして相伴させたということも十分あり得るのである。巨悪 (パパ) は陰でほくそえんでいるのかもしれないのだ。
価値中立的とされる論理学であるが、前提となる論理式の記述を誤ると、いともたやすく重大な可能性が見過ごされてしまうことがよくわかる。この練習問題においては一見リベラルな典型的家庭像が描出されており、家父長制において周縁的存在たるいもうとが男性の犯罪を解き明かしていくプロットはフェミニズム的ですらある。しかしいもうとがひとたび論理を手に真実に接近しようとするやいなや、象徴体系の中心たる父の犯罪は忽然と消失してしまうのである。ここでは家父長の犯罪が巧妙に隠蔽されている、というよりはむしろ、「ロジカル」に存在しえないものとされてしまっているのである。「ひとつしかない真実に迫る論証」を目指すこと自体が,男根中心的な思考法であり、これからのいもうとたちが構築すべきは単一ではない多様な真実の可能性である。これからの世界を担ういもうとたちは本書を批判的に読み解くことによってロゴス中心主義を打ち砕き、新世紀の来るべき革命に大いなる貢献を果たすこととなるだろう (この段落内容的にも論理的にもテキトー。ポストモダンな代筆者求む)。
そのほか第 I 部で興味深かった点。
(2) もしΓ|=Aならば、Γ,B|=A
(中略)
(2) は thinning と呼ばれたり、単調性 (monotonicity) と呼ばれたりして、Γから A が論理的に出てくるのであれば、その前提にさらにどんなこと B を付け加えても、いぜんとして A は出てくるということだ。これは、論理的帰結の定義にてらして考えれば、当然に成り立つことがらなのだが、我々が現に行っている推論と比べたときにはちょっと不自然な感じがする。というのは、我々はいくつかの証拠やデータや知識に基づいて或る結論を出したとしても、さらに多くの証拠・データ・知識が付け加わると、以前に出していた結論を撤回するということがよくあるからだ。こういう現象があるということは、我々が行っている推論が必ずしもここで扱っている論理的推論とは限らないことを示している。我々はしょっちゅう、「この前提からはこの結論が論理的に出てくるわけではないけれど、そうはいっても、その結論を否定する強い証拠もまた見あたらないので、とりあえずこの結論出しておけ」というようなアバウトな結論の出し方をする。このような「とりあえずの結論」が出せるからこそ、我々は刻一刻と変化する状況に対してリアルタイムでおおむね適切な反応をすることができるのだろう。こうした融通性に富む人工知能をつくろうとすると、単調性をもつ論理を使って推論・論証させていると都合が悪い。そのため、単調性をもたない論理がさまざまに開発されている。そういうのを一括して、非単調論理 (non-monotonic logic) と言う。 (p.69)
おお、これこれ、すごく興味がある。パースの言うアブダクション (Wikipedia) は非単調論理のひとつだ。科学の現場における仮説形成ではアブダクションがかなり活躍しているようなのだけれど、論文に求められるロジックは単調論理で、そこに俺の苦悩の根源がある。のではないかというアブダクションを行ってみる。この本ではどうやら非単調論理は扱っていないようだ。この本の後の楽しみにとっておこう。
例文の登場人物が映画俳優だったりミュージシャンだったりで楽しい。あと名古屋賛美。サイモンとガーファンクルのいずれかの犯行とされる殺人事件の証人としてクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングが登場し、以下のような証言を行う。
クロスビー:ガーファンクルじゃなければサイモンが犯人だ。
スティルス:ガーファンクルは犯人だ。
ナッシュ:ガーファンクルだけが犯人でサイモンはシロだ。
ヤング:ガーファンクルが犯人ならガーファンクルが犯人だ。
この場合ナッシュの情報が最も情報量が多く、ヤングの発言は典型的なトートロジーであり、ヤングの発言はどんな場合でも真となるのだが、それゆえにまったくの無価値で、ヤングのたれ込みに高い金を払う馬鹿はいない、と書かれている。この発言内容って各々の性格とかが反映されているのかな?
*1:どうやら shinimai さんとはワンノードを介してそこここで繋がっているようだ。と友人とホルモンを食いながら気が付く
*2:論理学って結構ユウモアを織り込みやすい分野だと思う。それが何故かを考えるのも面白い。『詭弁論理学』なんて高校のときにマンガみたいな感覚で読めた。ロジツクとユウモアにロジカルな関係はありやなしや?
*3:戸田山先生は江戸川コナンの用いる論理体系をまとめたものを江戸川論理学と蔑如されていらっしゃる。
*4:あるいはビールが冷蔵庫に一本しか無い場合は「兄貴かパパのどちらか1人だけがビールを飲んだ」という排他的選言を用いた前提を立てることになるが、この場合結論としては「犯人は兄貴のみ」で問題ない。いずれにせよ正しい論証のためには前提の書き換えが必要となる。