内部観測の内部に入れない僕。

 

Ontological measurement
Gunji YP, Ito K, Kusunoki Y.
Biosystems. 1998 Apr;46(1-2):175-83.

 
を読もう、という企画に誘っていただいた。郡司ペギオさんについては前々からとても関心が高かったので、すごく嬉しい。のだけれど、読める気がしない。カテゴリー論きちんと勉強したことない…。アブストの一語目から解かりません(泣)。なんですか、Endophysics って?*1隣の部屋に物理学をやってるエンドー先生ってヒトがいるけれど、少なくとも彼とは関係なさそうだ。
 
原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生
 
郡司さんの大著『原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生』はいつも本屋で手にとって、数ページめくるだけでひるんでしまうような、スゴイ本なのだ。そして絶望にまみれて頁を閉じ、書棚に戻しながらも、その重さによろめいて、「僕はいつの日かこの本を完全に理解する日が来るだろうか」と暗い声で呻き、くらくらしながら本屋を後にすることになる(参考:小泉義之氏の書評)。
 
そういえば郡司さんと小説家の保坂和志は、今発売中の Intercommunication で対談していて(「小説の自由 科学の不自由?」)、その感想を保坂さんはWEB草思の連載「世界はこんなふうに眺められる(第1回 プー太郎が好きだ!)」にこう書いていた。
 

 その学者というのは“理論生物学”というのをやっていて、本も何冊か出しているのだが、書いていることが難しすぎてほとんどわからない。しゃべるときは書いているときのような難しい言葉は使わないけれど、しかしやっぱり書き言葉とは違った意味で難しい。彼は自分の中にあるイメージを一生懸命伝えようとするのだが、そもそもそのイメージがふつうではないから身振り手振りが多くて、ほとんど伝わってこない。
 そこが偉いと思うのだ。彼だってもう40代も半ばの大学の先生だ。何冊か本を書いていれば、みんなから「難しすぎて読めない」と言われるだろうから、少しは妥協することを学習しそうなものだけれど、彼はそうしない。なぜなら、妥協して読者に伝わりやすくしてしまったら、彼の中にある生命についてのイメージが損なわれたり弱くなったりしてしまうからだ。“生命”“精神”“世界”“人間”というような、思考の根本のそのまた根本であるような概念は、ひとりの人間が自分の経験と知識と肉体を総動員してイメージを練り上げることだから、自前のイメージになればなるほど人に伝わらない。
(中略)
理論生物学者である彼のその、読者に妥協しない姿勢に感心して、私は自分を「せこいなあ」と思う気持ちにどっぷり支配されてしまったのだ。

 
難しいものというのは、その難しさまで含めて一つの意味を持っていて、だから、それを単純なものに置き換えてしまったら、何か大切なものが失われてしまうんじゃないか。郡司さんのアティチュードに対する保坂さんの理解は、複雑系を取り扱う時の心構えとも非常に響きあう。
 
もしかしたら、この本の中身は、本当はとてつもなく下らない内容なのかもしれない。でも、そう判断できるレベルまで自分の理解力を高められれば御の字だ。そしてもちろん僕は、この本の内容はきっと素晴らしいはずだ、という根拠のない予感を持っている。
 
今の僕には、この論文が何を言おうとしているのか全くわからない。アブストを翻訳にかけたら、そのわからなさが益々、増幅されるような素晴らしい訳文が出力された。保坂さんの文を読んで、わけのわからないものを、わけのわからないまま、真摯に受け止める、それが大事な気がしたので、そのまま掲載しよう。
 

Endophysicsは、結局オブジェクトと観察者の間の不定のインターフェースを推定します。そのようなインターフェースを与えられたオブジェクトは、それらを識別するために使用される測定過程と相違を示すことができません。新生の特性および順応性を含む進化のプロセスは、新しい見方で見られます。不定数および(または)逆説の概念が、デカルトのカット*2の認識論のフレームワークに基づく表面に現われます。しかしながら、逆説の生成および解決から成る永続するプロセスは、測定の認識論のフレームワークを越えています。それらは、進行(一つは存在論の(あるいは固有の)測定と呼ぶことができる(それ))についての概念に結びつきます。*3

 
少なくとも、今の僕は機械翻訳以上に蒙昧なのだ。
 
いつの日か。

*1:参考になりそうな文献を調べました。 Otto E. Rossler『Endophysics: The World As an Interface』、津田一朗「脳の数理 : 動的脳の側面から : HUSCAP」、ジョン・L.カースティ, アンダースカールクビスト『現実の脳 人工の心』などなど。

*2:デカルト切断:対象と観測者の分離

*3:僕の訳:Endophysics は究極的には対象と観測者との界面が非決定的であることを推定する。そのような界面を考えれば、対象はそれを認識するためのプロセスから分離することができない。ここで、創発的性質と適応性を備える進化のプロセスに新たな光が投げかけられる。デカルト切断の認識論的フレームワークに基づく表面に、非決定性 及び/あるいは パラドックスが表れるのである。しかし、パラドックスを生成し、解決する絶え間ないプロセスは観測の認識論的フレームワークの粋を超える。こうしたプロセスは、存在論的(内在的)観測と呼ぶべき発展的概念を導く。