海馬の新生ニューロンは時間を記憶に刻み込む?

 
エピソード記憶における時間表現と海馬のニューロン新生との関係を論じたPERSPECTIVEです。
 

そして私が、ぼだい樹花を煎じたものにひたして叔母が出してくれたマドレーヌのかけらの味覚だと気がついたとたんに(なぜその回想が私をそんなに幸福にしたかは、私にはまだわからず、その理由の発見をずいぶんのちまで見送らなくてはならなかったが)、たちまち、表通に面していてそこに叔母の部屋があった灰色の古い家が、芝居の舞台装置のようにあらわれて、それの背後に、庭に面して、私の両親のために建てられていた、小さな別棟につながった(私がこれまでに思いうかべたのはこの別棟の裁断面だけであった)、そしてこの母屋とともに、朝から晩にいたるあらゆる天候のもとにおける町が、昼食までに私がよく送りだされた広場が、私がお使に行った通が、天気がいいときにみんなで足をのばした道筋が、あらわれた。そしてあたかも、水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭のすべての花、そしてスワン家の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

 
どうしてある種の味、匂い、音楽などは、過去の様々な記憶を呼び起こすのでしょうか?上の引用は井上究一郎の訳によるプルースト失われた時を求めて』の有名な一幕です。主人公がマドレーヌを紅茶に浸し、その香りから幼年時代の様々な追憶が蘇る様子を描いています。他の感覚モダリティと比べ、特に嗅覚は記憶を鮮明に呼び起こすのですが、その現象は「プルースト効果」とも呼ばれています。
記憶が生み出されているとされる海馬でのニューロン新生の研究はもしかしたらプルースト効果の解明にヒントを与えてくれるかもしれません。
 

Nat Neurosci. 2006 Jun;9(6):723-7.
Potential role for adult neurogenesis in the encoding of time in new memories.
Aimone JB, Wiles J, Gage FH.

 
大人になってもニューロンが新生する部位は二つあります。一つは脳室下帯(subventricular zone)、もう一つは海馬の歯状回です。しかしこれらの新生ニューロンが如何なる役割を果たしているかは尚もって明らかではありません。
著者らは海馬の歯状回における新生ニューロンが、エピソード記憶の形成において時間的な関連性をコードしているのではないか、という新たな仮説を提唱しています。
 
まず、この仮説の基礎となるポイントとして、新生ニューロン固有の神経生理学的特徴があります。歯状回で新生したニューロンは1.5週間ほどで海馬内のGABAニューロンから細胞体への入力を受け始め、2週間ほどで樹状突起を形成し、内嗅皮質(entorhinal cortex)からの(グルタミン酸の)入力を受けるようになります(Fig.1)。重要なのは通常のニューロンにおいては抑制性の入力となるGABAが、新生ニューロンでは興奮性の入力として働くということです。そのため、新生ニューロンは興奮しやすい状態にあり、よりLTPの起こりやすい状態にあるのです。
 
そしてもう一つの重要なポイントは海馬の歯状回がスパース・コーディングを行っているだろう、ということです。約20万個の内嗅皮質のニューロンが100万個の歯状回のニューロンに入力を行っているのに対し、歯状回からCA3への出力は非常にまばらです。この解剖学的性質により、異なる二つの環境からの入力は、CA3において明確に区別された発火パターンに至ります。
 
このような海馬のスパース・コーディングにおいて、発火しやすい新生ニューロンはどのような効果をもたらすと考えられるでしょうか?
 
まず成熟したニューロンだけが歯状回に存在する場合を考えてみましょう。ある期間(例えば数時間)をおいて発生した異なる2つのイベントはCA3において全く異なる発火パターンを形成します。CA3の発火はCA1などを経て最終的には皮質へと伝播し、記憶の固定が行われるわけですが、この場合、二つのイベントの記憶表象を互いに結びつける要素は存在しないことになります。従って、二つのイベントは孤立した記憶表象として貯蔵されることとなり、二つのイベントの時間的近接性は表現されないことになります(Fig2a)。
 
しかし、歯状回の新生ニューロンがある一定期間、興奮しやすい状態にあるとすればどうでしょうか。成熟したニューロンが二つのイベントを明確に分離してコードするのに対し、新生ニューロンはどちらのイベントに対しても発火することが考えられます。そのため、CA3での情報表現はある程度分離しつつも、オーバーラップする範囲が存在することになります(Fig2b)。著者らは新生ニューロンによって生じるオーバーラップこそが記憶の時間的近接性を表現すると考えているのです。
 
ちなみにある一定期間以上の間隔を空けて二つのイベントが発生する場合についても考察されています。この場合、最初のイベントによって発火した新生ニューロンが、次にイベント発生時には既に成熟してしまっているために、発火がおこらず、二つにイベントの記憶表象にオーバーラップは生まれないだろう、ということです(Fig2c)。
 
このようにスパースコーディングを行う成熟ニューロンと連続的なコーディングを行う新生ニューロンとが歯状回に存在し、後者が時間的近接性を表現しているという仮説です。なかなか鮮やかに発生と機能とを結び付けていてるなあ、と感じました。これからの実験的検証が楽しみです。
 
(ここからは僕の妄想なのですが)このPERSPECTIVEでは歯状回だけが扱われていましたが、もう一つ、脳室下帯という部位でもニューロンが新生することが知られています。そしてこの新生ニューロンは嗅覚を担う嗅球まで移動します。嗅球と(情動を担う)扁桃体との繋がりも記憶を考えるうえで重要な要素でしょうが、ここで扱われたような新生ニューロンの役割もプルースト効果に関係しているかもしれません(といっても嗅覚は知らなさ過ぎるので勉強しなければ…)。