吉田近衛町69番地

 
 
タイトルは僕の好きなハービー山口の写真集『代官山17番地』から借りてみた。今はない同潤会代官山アパートをノスタルジックなモノクロームで切り取った写真集だ。そこに写る風景や人々は、フィルムに焼き付けられた瞬間には確かに存在したはずなのに、しかし、すでに失われてしまうことが決定付けられているかのようなはかなさを感じさせる。僕にとっての吉田寮も、眼前に強烈に存在しながらも、何故だか半分失われてしまっているかのような奇妙な印象を与えるのだ。歴史と現在の境界を揺らめくような時間がここには流れている。
 

吉田寮エントランス

 
吉田寮エントランス。東大路通りから続く鬱蒼とした銀杏並木のトンネルの奥にある。ここまでは目にしたことのある人も多いかもしれない。
並木の右手にはサークルの部室が並び、朝から晩まで楽器の音が聞こえてくる。夜も遅く四条あたりからとぼとぼと歩いて帰ってきたときには、調子外れなテナー・サックスの音階練習も、僕をほっとさせる。
入ってすぐ右は管理人室。といっても一体全体、管理というべき営為が存在するのかは、知らない。兎に角、外からの宿泊者はここで記名して一泊200円を支払う。入ってすぐ右は麻雀部屋として使われているようだ。
上がり框があって、ついついそこで靴を脱ごうとしてしまうのだけれど、土足で入るのが吉田流。框を上がるとそこがラウンジ(仮)。昼夜を問わず先鋭的な男女が集い、熱い交流が交わされているのだった。
 
 
先日もお見せした僕の宿泊した部屋。外部者が宿泊するときはいつもこの部屋に通されるのだが、今回は僕のほかに二人の寮生が住んでいた。そのうちのひとりはなんと僕の高校の先輩だった。お互い顔も知らなかったのだけれど、実家の話など聞いていくうちにするすると共通項が見つかり、一学年上の方だったことがわかったのだ。先輩にして現六回生。六年もこの寮に住み続けているだけあって、なかなか度量の大きい方。
この部屋にはご覧の通り布団が山ほどあって自由に使えるのだけれど、歴史を芯まで吸い込んだような色合いに、僕はいつもひるんでしまい、畳の上に直に寝ることにしている。
ノミが出るらしく、この四晩で僕の手足は赤い斑点に覆われた。ちなみに人間やノミ以外にも棲息動物は豊富で、カだとかハエだとかアリだとかダンゴムシだとかカナブンだとか、他にも名の知らない様々な虫を僕は観察した。「吉田寮の生態系」とかいうテーマで夏休みの自由研究になりそうなくらいだ。
 
吉田寮中庭

 
中庭。吉田寮の棟は三叉に分かれているので中庭が二つある。雨上がり、草いきれが立ち込める中、見上げる古い木造建築はなかなか趣き深い。この風景、どこか懐かしい思いがしたのだけれど、よく考えると今はなき駒場寮の中庭とよく似ているのだ。
駒場寮も吉田寮と同様、キャンパス敷地内の寄宿舎だった。廃寮を計画する大学側から立ち退き命令が出て以来、利用者の少なくなった駒場寮の空き部屋はクラスの集会などにも利用されていたのだが、クラスにそれほど馴染まなかった僕は、大して駒場寮へ足を運ぶことはなかった。とはいえ、そのクラスには僕にとって気になる女の子が一人いて、その子が薄暗くがらんとした空き部屋に取り残された、調律の外れた古いピアノをとりとめもなく流れるように弾いている風景だけは強烈に記憶に残っている。ピアノに向かう後ろ姿は妙になまめかしかった。あれも梅雨の季節のことで、窓から見える中庭の樹々はしっとりと滴を帯びていた。
大学一年の夏休みには機動隊が寮をぐるり取り囲み、廃寮反対者(この時は吉田寮関係者も含め学外者もかなり多く応援に駆け付けていた。ほとんどは学生というより運動家だったと思うが)を制圧・排除し、寮は取り崩された。その跡地には今、コミュニケーション・プラザという、まあ、生協だの書店だの食堂だのをまとめた、現代的な建築物がそびえている。
駒場寮にも様々な問題があって、大学側にも寮生側にもそれぞれ主張があったのだろうけれど、僕にとってあの薄汚れた寮は、ピアノを弾く彼女の後姿とセットになって記憶されていて、ノスタルジックな追憶の対象でしかない。僕が吉田寮に妙に執着するのも今はない駒場寮を重ね合わせているからかもしれない。
ところで、吉田寮も大学側から圧力をかけられているのは、大学の作成した公式の学内地図を掲示したボードに「吉田寮」の表記がないことからも明らかだ(建物の輪郭だけは描かれている)。一部のボードには、寮生の仕業か、ボールペンで「吉田寮」と書き込まれていたりする。「寮」の字はウ冠の下にRという略字を用いており、この表記は吉田寮内でもいくつも見た。これは吉田寮オリジナルの文化なのだろうか?
 
吉田寮壁画

 
壁のグラフィティ・アート(?)。大きな仏陀の顔が描かれているのだが、近くに顔を寄せるとそこにも小さな仏陀がいるというめくるめくフラクタル構造。下のTシャツは雨に濡れたので乾かしている、僕のもの。
闇にうっすらと浮かびあがる巨大な顔はなかなか気色悪く、それに加えて蒸し暑さと、虫が肌を這い回るむず痒さとで寝苦しい夜の連続だった。おまけに、隣の部屋にはテレビ・ゲームが何台も置かれていて、夜遅くまで寮生が騒いでいた。流れてくる音楽のリズムに合わせてボタンをたたくゲーム、あれには辟易である。それから「実家で盗難があったとき疑われる、疑われるw」だとか「今日、布団をめくったら半分羽化しかけの蝉が潰れててさww何年も土の中にいたのに可愛そうだよなあwww」だとかいった会話が聞こえてくるのだけれど、眠りを邪魔され、それでも、怒るに怒れない妙な可笑しさがある。しまいには誰かが水戸黄門のテーマ曲をアコースティック・ギターで弾き語りだすのだった。
話は変わるけれど、僕の部屋の扉は夜も開きっぱなしで、廊下を人が通るのが中から窺える。吉田寮には、当然、というべきか、女性の寮生もいて、シャワーを浴びたての女の子が髪を濡らしたまま、薄着で通り過ぎたりする光景は、なかなかどきどきするものがあった。四晩だけの宿泊では、僕も、何とか、平静を保ったけれど、何ヶ月も住んでいたら、どうなるか、わかったものでは、ない。うむ。ゆゆしい。吉田寮における男女関係というのはこれまであまり観察する機会がなかったので、次回以降の課題としたい。
 
 
土曜日の深夜遅く部屋に辿りつくと、部屋がすっきり片付いていた(違いがわかるだろうか)。もう一人の寮生の一回生君が整頓してくれたらしい。おかげで最後の夜は大分快適にすごせた。僕は最初に部屋に通されたときの惨状から、この部屋の住人には一切、衛生だとか、整理という観念は存在せず、ただただエントロピーの増大に身をまかせているのだと思っていたから、かなり吃驚した。
ところでこの部屋には、芥川龍之介の切支丹もの『奉教人の死・煙草と悪魔』だとか、マルクスとその周囲の人間関係をパロディ化したエロ小説『まるくすタン―学園の階級闘争 (A‐KIBA Books Lab)』だとか、いくつか本が転がっていてどれも面白かった。特に、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は妙に寮の雰囲気にはまっていて、僕は毎晩ビールの空き缶を灰皿にして寝煙草しながらページをめくった。その中の一節。

君たちが快適な住まいや柔らかいベッドをさげすみ、柔弱なやからからいよいよ離れて床につこうとするなら、それがすでに君たちの徳の根源となるのだ。

重みのある言葉なんだけれど、妙にこの部屋の状況とかぶっていておかしかった。この寮で大学生活をおくった人たちはいったいどんな徳を身に付けるのだろうか(反語ではないですよ)。
 

吉田寮歓酒

 
柱に記された「歓酒」。残念ながら寮生とは「この盃を受けてくれ/どうぞなみなみつがせておくれ」なんて展開はなかった。みんな、いい意味で不干渉を保ってくれたのは、数日だけの宿泊者にとっては気楽だった。
日曜日部屋を後にするとき同室の二人は昼寝中だった。夜も騒がしいこの寮の住人だけあって、数回声をかけても起きなかった。無理に起こすよりは静かに立ち去る方が流儀かもしれない、と、僕は結局誰にも挨拶せずに吉田寮を後にしたのだった。
さよならだけが人生だ。