ダライ・ラマと神経科学

現在訪米中のダライ・ラマ14世。今月9日にはブッシュ大統領と会見し、12日にはワシントンで開催されている神経科学学会(Society for Neuroscience)で招待講演を行った(はず)。訪米は中国からの大きな反発を招いている。
実はダライ・ラマ14世の招待に関しては、神経科学会内部でも議論があり、反対派からはこの様な声明が発表され、千を超える署名が集まった。
反対派の言い分としては、「神経科学のための学会に、特定の宗教及び政治のリーダーを招くべきではない。ダライ・ラマは心と身体の分離を主張しており、それは我々の依って立つべき精神に違反する」と言ったところであろうか。
先ほどのサイトにリンクしてある署名を見ると、やはりと言うべきか、中国系の名前がずらっと並ぶ。宗教と科学に関わる信条の問題と言うよりは、裏に隠された政治的な意図が見え隠れする。
神経科学が精神を物質に還元していくことを主義主張とするのならば、その過程において宗教との対話は避けられないものであるし、あくまで実証的な姿勢があるのならば宗教との関わりを拒絶するべきではないと思う。ダライ・ラマ自身は決して科学に無理解な人間ではないし、神経科学も宗教から様々な知見を得てきたのだ。神経伝達物質と精神との関係は、伝統的に宗教儀式に用いられてきた植物に含まれる成分から明らかになってきたのである。
特定の思想に科学が歪められる恐れに関して否定はできないが、科学と言うものがそもそも様々な権力の鬩ぎ合いの中で産み出される営みであることは自明であり、企業や国家の基金に頼って研究活動を行っている科学者たちが素知らぬ顔で批判できることではない。
対話を拒絶する姿勢こそ、実証科学には相応しくないと思われる。
実際の講演はどうだったのか、ボスの帰国を待って、尋ねてみよう。
ちなみに下はダライ・ラマの協力の下、チベット僧の瞑想時の脳波を調べたもの。

Long-term meditators self-induce high-amplitude gamma synchrony during mental practice
Antoine Lutz, Lawrence L. Greischar, Nancy B. Rawlings, Matthieu Ricard & Richard J. Davidson
Proceedings of National Academy of Science of the United States of America (2004)

ラスト・オーサーのR.J.Davidsonはダライ・ラマのbelieverだと反対派から名指しされているが、科学的な態度を貫いているかぎり問題はないと思う。論文提出はB. H. Singerにコミュニケートだが、この人は脳波、特にコヒーレンスの研究で著名な人で、政治的な過程が働いているかは不明。
前述の反対派の人たちは、この論文は多くの欠点があると述べているが具体的な指摘はない。科学的な主張なら少しは具体的な批判をするべきだろう。
僕はざっと目を通しただけだが、チベット僧の瞑想中の脳波はガンマ周波数帯が強く、同期も起こっている。ガンマ周波数帯の強さは修行の長さと相関がある、といった内容。
瞑想に関する具体的データが並ぶだけで、特に宣伝要素が強いわけではないように見える。瞑想という行為が実在する以上、それを実証的に調べてみるという姿勢は批判されることではないし、その際には特定の宗教にコミットするしかない。反対派は、特定の宗教に関わらない推奨される研究対象としてハリ治療を挙げている。反対派のお里が知れるではないか。もちろん鍼灸などの研究はおおいにしていただきたいが、陰陽五行説の思想に基づく鍼を対象とすることが、彼らの批判するチベット僧の瞑想の研究と、そう質的に変わるだろうか?
宗教には、自然科学が生まれる以前の、人間と自然に関する叡智が詰まっている。そして自然科学そのものの出自がそうであるように、人間の文化において宗教と全く関わりないものを探すほうが難しいのではないだろうか(自然科学の最先端にあるアメリカが、現代においても非常に宗教的な国家であることは、昨今の状況を見ても明らかである)。そうである以上、実証精神という足場を確保した上で、真摯に宗教と向き合っていく以外の道は無いように思われる。