PJ、チョムスキーらに噛み付く (第一ラウンド)①
ウィリアム・ジェイムス『プラグマティズム (岩波文庫)』より。
諸君はふたつのものを結合せしめるようなひとつの体系を要求している。すなわち一方においては事実にたいする科学的忠実さと事実を進んで尊重しようとする熱意、簡単にいえば、適応と順応の精神であり、もう一つは、宗教的タイプであるとローマン的タイプであるとを問わず、人間的価値にたいする古来の信頼およびこの信頼から生じる人間の自発性である。そしてこれがつまり諸君のディレンマなのである。すなわち諸君は諸君の求めるものの二つの部分が分離してしまって如何ともしがたいのを見出す。かくして非人間主義と非宗教主義を伴う経験論があるかと思えば、他方には合理論的哲学があり、これは確かに宗教的であると自称しうるであろうが、しかし具体的な事実や歓びや悲しみとのあらゆる明確な接触を排斥するのである。
合理論者の提供する献立表にたいして経験論者的なこころが加える反駁はかようなものである。
「おぼしめしはありがとうございますが、まっぴらごめんです」という頭っからの拒否である。
すべての偉大なる哲学者の著書はその数だけの人間の存在にひとしい。それらの書物のどれもがもっている本質的な体臭、独特のものではあるが、筆舌につくしがたいこの体臭をわれわれが嗅ぎ分けるということ、これこそわれわれ自身の完成した哲学的教養のもっともみごとな果実なのである。体系は神の大宇宙の縮図ででもあるらしく装っている。しかし実際は―なんとそらおそろしいことであろう―同じ被造物たるなにがしという人間の体臭がいかにひどく風がわりであるかを暴露しているに過ぎない。
ふう、暑くなっていくこの季節、体臭には気をつけなければなりません。
さて、PJ とは女性に大人気の下着屋 Peach John、ではなく心理学者スティーブン・ピンカーと言語学者レイ・ジャッケンドフの二人。
以前紹介したように Houser、Chomsky、Fitch の Science 論文 (2002) (以下 HCF) をきっかけに言語能力の進化をめぐって昨年 Cogntion 誌で繰り広げられた論争(参照)。
まず話しの前提となるHCFの主張を簡単にまとめます。HCFは言語能力を広義の言語能力 (FLB: Broad Faculty of Language) と狭義の言語能力 (FLN: Narrow Faculty of Language) とに分け、FLB は(人間の、そして人間以外の動物の)認知能力と共有されるものであるが、FLN は人間に固有であり、また言語モジュールに固有の能力であると定義します。この FLN に何が含まれるかというと再帰的計算 recursion がコアとなります。そして HCF は再帰的計算能力は言語に対する自然淘汰による漸進的進化では説明できないとします。HCF は再帰的計算能力は言語機能以外の能力の外適応によって生まれたのではないかと考えています*1。
では、PJ vs. HCF の第一ラウンド、PJ からの反論をご紹介します。
The faculty of language: What's special about it?
Pinker S, Jackendoff R.
Cognition (2005) 95, 201-236
1章はイントロダクション、2章は HCF の主張に矛盾する言語学の諸現象を挙げています。2章は膨大な言語学的反例がそれぞれ非常に興味深いですが、話の流れからすると瑣末といえば瑣末。3章以降がいよいよ見所で PJ、熱くなっております。今日は3章を簡単にまとめます。
3. 再帰だけ仮説の論理的根拠としてのミニマリスト・プログラム
- ミニマリスト・プログラムとは?
HCFの主張
- ミニマリズムの一番の問題点
チョムスキー自身もこう言う…
「ありとあらゆる言語現象がことごとくミニマリズムに異論を唱える!」
(こうすぐ付け加えるけれど)
「世界のあらゆる現象も、一見するとコペルニクスの理論に異論を唱えているように見えるのだ!*2」
- あらゆる科学理論は、不都合なところを無視すれば、反証から逃げ延びられるのだ
- チョムスキーのミニマリズムってそもそもそんなミニマルではない
- d構造がない、というのは色んな制約が適用されるような表象としては存在しないというだけで、あいかわらず樹があって、移動して派生が起こるのだ
- あらゆる形態素に枝がついて、空の節点がたくさんああって大変だ
- 「ジョンがメアリーを見た」には6層の樹が生えて、痕跡が4つあって、他に5つの比較すべき派生がありえる・・・
- 統語が極小になるために、語彙は重荷を背負わされる
- ミニマリズムを動機付けるもの
- 物理学の最小運動原理とか認知的情報処理リソースの制約だとか記号やステップ数の形式的表記法とか色々。
- 早さとか簡単さとかコストとか必要とかメタファーがいっぱい
- 「貪欲」だとか「ぐずぐず」だとか「最後の手段」だとか擬人法もいっぱい
- こういう概念って基本原理から導出できないでしょう。
- ア・プリオリに設定するだけ
- ローカルな情報だけで派生の最適解を選んでいく作業は計算論的にも負荷が高い
- 多くの言語理論家がミニマリズムにあっという間に鞍替えした。
- ミニマリズムは大博打
4章(JP、チョムスキーに噛み付く(第一ラウンド)②)へ続く。
う〜ん、こうやってみると、かなり後半は性格が悪い感じです(笑)。アジビラみたいな…。ミニマリズムを叩きたいだけでは?といった感じですね。これだけやれば鬱憤も晴れるのではないでしょうか。
とはいえ純粋な言語学理論の話としてもやはり興味深い。何をミニマルと看做すかで、チョムスキーとピンカー・ジャッケンドフとの間で齟齬があるようですね。ミニマリズムは生まれたばかりで理論体系に無理があることは確かです。しかし、いかんせん言語進化の議論からは逸れすぎです・・・。
というわけで続く4章ではいよいよ進化に関する本質的な議論に突入します。