如是我聞

 
Writes of Passage - THINGS BEGIN
Lisbon22 くんがアマルティア・センの「ケイパビリティの平等」とフーコーとを結びつけて議論している。ケイパビリティとは潜在的に選択可能な行為の集合である。この辺りは僕が今年の三月に駄文を垂れ流して考察したこととも重なる。僕はその文章を書きながら x0000000000 さんからアマルティア・センの思想を教えていただいたので、環を描いて繋がっている感がある。
 

批評理論として見た場合の障害学は、それこそフーコー的な身体観から「障害」なるカテゴリの構築性を指摘し、(とりわけその歴史性に着目しつつ)認識的差別を批判するという立場をとることになるのだろうが、他方これは現実レベルで障害を持つ人が少しでも生活しやすくなるようにという技術的・政策的努力とは切り離せない、ということは忘れられてはならない。もちろん、フレイザー・バトラー論争に見られるようにこれは障害学に限らずフェミニズム等にも共通する問題なのだけれど、とりわけ障害学の場合にはそうした「障害」カテゴリの構築性(例えば「車いすを使わないと移動できない」ことと「メガネがないとものが見えない」ことの本質的違いはあるか、とか)が技術的・経済的次元で比較的容易に(解決とは言わないまでも)解明しうる可能性を秘めている(例えば全ての階段にスロープを付けたり)という点から、色々複雑な問題も生じてくる。
 
例えば少し前に話題になったES細胞とそれを利用した再生医療について。こちらあるいはこちらで述べられているように、仮にES細胞を利用した再生医療によってある種の「障害」が「治療」できる可能性がうまれたとして、それによって「障害」が「治されるべきもの」とされてしまう認識的暴力には常に気を配らなければならないけれど、他方それによってある一定の人たちの生が生きやすくなるということは誰にも否定できないし、それを妨げることなど誰にも(おそらく他の「障害者」にも)できない。これって例えば聴覚「障害」を持って生まれてきた子供に日本手話を「必ず」教育することが日本手話ナショナリズムなのか(その子供が自分で書記日本語を第一言語として選択する自由はあるのか)という問題とも連関してくると思うのだけど、はっきり言ってそれを否定することも肯定することも今の僕にはできないのだ。

 
三月の時点では、「ケイパビリティの平等」という考え方そのものに「快活な貧農」、「飼いならされた主婦」の問題を解決する力が内在しているかのように納得していたのだが、やはり、平等を究極まで考える際には、主体の内面 (意志・願望・信念・価値観) まで踏み込むことも必要であるように感じている。そうでなければ潜在能力の顕在化について、何ら請合うことができないからだ。それを具体的な政策として実行することの難しさ・危険さは無視できないけれども。
 
さて、医薬技術の発展そのものが新たな障碍カテゴリーを構築してしまうという問題点については、例えば N. Rose が精神医療の分野で論じており、Arational Agent さんがこちら (2006年6月13日) で詳しく紹介されている。
 

近年精神病理状態の分類わけが細かくなってきて、新たに精神病理状態として登録される心的状態が増えているようなのですが、これらの中には理論的根拠が薄いものもあるようです。この精神病理状態の分節化促進に、スマート・ドラックという考え方が一役買っているのではないかとローズは示唆しています。製薬会社は、既存の向精神剤に多少の変化を加えたバリエーションを市場に売り込むために、それらの薬剤が特異的に効くはずの精神状態を、新たに特定化された精神病理状態としてDSMに登録させます。そうしておいて、その新たな症状に特異的に効果があるスマート・ドラッグとして自社製品を販売します。このような精神病理状態の例として、Social Anxiety Disorder, Panic Disorder, Generalized Anxiety Disorderがあげられています。もしもローズの主張が正しければ、スマート・ドラッグという考え方は、産学とマスコミの共同作業を促進し、向精神剤のマーケティングを拡大させたキー・コンセプトとみなしうるのではないかと思われます。

 
身近な薬学の研究を眺めてみても、Rose の議論は荒唐無稽な陰謀論として切り捨てることは難しいように思える。製薬業界の意向が、薬学・医学研究の動向をかなり大きく握っていることは間違いない。
僕がこれらの議論に関連する身近な例として嫌悪感を覚えているのは、 "AGA" (男性型脱毛症) に関する萬有製薬のキャンペーンだ。"AGA" などと耳慣れぬ略語を用い、「治療されるべき」「進行性」の疾病として喧伝しているようだが、何のことはない、ただのハゲ、老化現象であり、新製品を売り出すための新たなラベリングに過ぎない。なにしろ、CM の映像は、ハゲを社会からの逸脱としてラベリングする意図が明らかだ。こちらで直接 CM を見ることが出来るが、その内容は、ハゲを気にするサラリーマンの男性がスーツを脱ぎ、"AGA" の大きなロゴの入った T シャツに着替え、同様の T シャツを身にまとった "AGA" の治療を待つ人々の長蛇の列に加わるというものだ。"AGA" のユニフォームに着替えることで人間は個を喪失し、社会の外部に追いやられる。そして、スペクターとキツセが指摘するように、人は逸脱者として指示されることにより、逸脱者というアイデンティティを獲得する。この CM がそういった二次的逸脱、すなわち "AGA" のロゴ T シャツを纏い医院に足を運ぶ人々の群れ、を大量に生産する意図があることは間違いない。なにしろ CM によれば "AGA" ではサラリーマンとして務まらないのだから。まあ、僕も将来ハゲるのだろうが、尊敬し憧れるハゲは沢山いるし*1、その手には乗らないぞ。
 
続いて、引用後半の聴覚障碍者の言語教育に関していくつかコメントを。
まず、書記日本語を第一言語として獲得する可能性はありそうにない。音声言語および手話は母語として自然に獲得することが出来る。対して、書記言語は、まず、文字の習得が言語の獲得と同時になされることを前提としなければならない。果たして人間は生得的に文字を習得する能力を有すると言ってよいだろうか?我々は、どうやら強制されるまでもなく、音声や身振りを使って自発的に言語を獲得していく能力を有するようだが、一方、文字の習得には明示的な教育・訓練が必要であることは明らかである。更に、書記言語を母語とする文化が歴史上存在したかを考えれば、それもまずありそうにない。(音声であれ手話であれ)言語を持たない文化は存在しないが、文字を持たない文化は数限りない。こういった考察から、書記言語は自然言語から副次的に生じる(発明される)「文化的なもの」として捉えたほうが良いだろう。
また、書記言語は、実際に使用可能な場面が非常に限られるため(外でものを見かけたときにいちいち紙にその名を書き付けるわけにはいかない)、獲得に著しい困難を伴う。仮に書記日本語を、困難を乗り越えて習得したとして、果たしてそれが十全なコミュニケーションに役立つかは疑わしい。
もちろん、これらの議論は我々が言語を獲得する際の実用上の問題であり、デリダの音声言語中心主義への批判とは全く別の次元の話だ。
それから、本来なら僕の専門と関連して脳と言語・文字の関係に付いても述べるべきかもしれないけれど、僕は、脳を持ち出すまでもなく片付けられることは、それで済ませたい。・・・というある種の職業倫理を持つことに決めた。職業じゃないけれど。
 
第二に、手話を「教育」することが手話ナショナリズムに繋がるかもしれないという点について。やはりここでも言語「教育」という概念自体が問題になる。
まず、聴覚障碍児が聾者の親のもとに生まれてきた場合、親とのコミュニケーションの中で手話は自然に獲得される。ここではごくごく当たり前の世代間の言語伝承が行われるのみで、これをナショナリズムと呼びうるならば、言語の存在そのものを批判しなければならなくなる。
また耳の聴こえる両親の元に聴覚障碍児が生まれた場合、子供が言語を獲得していくのは、やはり、聴覚障害者同士のコミュニケーションを通じてであり*2、両親は飽くまで第二言語として手話を覚え、子供とのコミュニケーションの手段として用いるのみである。ここでも言語「教育」は成り立たない。親の思惑を越えて子供は言語を獲得していくのである。
また日本の聾学校においては、日本手話は抑圧されてきた歴史があり、口話法を公式の教育形式として採用してきた。口話法とは読唇と発声の技術の修練である。もちろん聴覚障碍者には著しい困難と負担を強いるものであるし、実用上の有益さも聴覚障碍のレベルによってまちまちだ。口話法を中心に教育が行われてきた背景には、統一言語(日本語)による国家制度の安定を目指す思想がある。しかし、抑圧の中でも、陰で先輩から後輩へと手話が伝承されていったのである。近年では手話を積極的に取り入れる聾学校も増えてきたらしい。
 
このような背景を考慮すれば、手話ナショナリズムという想定は現時点では妥当な論の立て方ではないように思える。歴史的には、まず聴覚障碍者が自然なコミュニケーション手段である日本手話を母語として公に用いる権利そのものが抑圧されてきたのであり、日本社会における利便性に基づいて(書記)日本語を徹底的に「教育」しようとする立場こそが、偏狭なナショナリズムとして批判されるべきであるからだ。また、以上のような歴史的な背景を抜きにしても、人は決して母語を「教育」することはできないのである。周囲の言語環境と子供との相互作用が母語を決定するのであり、そもそも母語選択の自由という考え方自体が疑わしい*3。少なくとも聴覚障碍児に対して周囲が出来ることといえば、言語獲得の感受性期までに、自然な形で母語を獲得できるような言語環境を用意することであり、もちろん日本国においてその環境としては日本手話が殆ど唯一の選択肢ではあるが、それはナショナリズムとは切り分けて論じるべき問題ではないだろうか。

*1:フーコー。ってのは嘘だけど、マイケル・スタイプとか。

*2:外部の聴覚障碍者から孤立した場合、ホームサインと呼ばれる独自の身振りによるコミュニケーションが創生される

*3:もちろん子供から言語環境を剥奪するなどはもっての他である。