坂本龍一×小林康夫「音楽はどこにある?」

ふたりの対談が授業の一環で構内で催されることをたまたま知って聴いてきた。
僕は YMO 後のものは細野晴臣をメインに聴いているのであまり良い聴衆ではなかったかもしれないけれど、一流の音楽家の頭の中を生で覗き込む経験は非常にためになった。以下簡単なまとめ。坂本教授と小林教授の発言は積極的に区別することはせずに、しかも僕の言葉が侵食しているところが多いのでご注意ください。対談とその聴衆の相互作用に依るエマージェンスです。
 
坂本龍一が若い頃から興味があるのは脳と音楽の関係だったり、音楽の進化上の位置づけだったりする。鳥やイルカも構造を持った音の連なりを発するわけだが、それはコミュニケーションや生殖のための手段という非常に道具的なものである。だからと言ってそれらを音楽として認めないと断言するわけにもいかない。

そこには連続性があって、何を音楽を捉えるか、は我々の脳の側が規定するといえるのではないか。ネアンデルタール人は大きな脳を持ち、様々な専門的なモジュールが発達しており、歌うことは出来たかもしれないが、彼らの脳はモジュール同士が接続されておらず、従って象徴的な思考は扱えなかったのではないか。だからそれは音楽とは呼べないかもしれない。
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小林は逆に形而上学的に音楽が最初にある、と考えることが出来るという。"War & Peace" という曲の中の "Is war as old as gravity?" というフレーズ同様、音楽は重力くらい古いかもしれない。
坂本はあまり human な感情に傾かないように自制していて、「自己表現」は恥ずかしいという。音楽は線型な流れを持っていてそれが感情、心を運ぶのだが、そこから離れたい。線型なものから離れて空間の中で新たなものを構築したい。とはいえ西洋音楽のような一義的な空間からも自由になりたい。西洋古典音楽は線型なものを離れた地点から見通す神の目の視点で構築されている。オーケストラを聴くときにも理想的な位置というのがある。それに対してケチャの様な音楽はどこで聴いても良く、神の視点は存在しないし、構造も西洋音楽とは全く違う。大学時代には神の視点からの作曲技法を破壊しようとして五人の演奏者がただある一定の規則に従って音を発するメカニズムに従ったような音楽を構想したこともある(前エントリーのマルコフモデル的!)。それは自己表現の対極にあるものだったが実現には至らなかった。
彼が大学入学までに学んだ西洋音楽から自由になるために選んだ素材は2つあり、ひとつは前述の民族音楽。それから電子音楽(シンセサイザー)。時代的にも西洋近代のデッドエンドであり、丁度シンクロニシティが生じた。
(ここで小林の選曲した坂本龍一 "CHASM" を聴く)
Chasm
この曲はピアノの即興を素材にして作った。ピアノの余韻が環境ノイズと混ざり合うまで弾き切る。この時線型な連なりの誘惑を断ち切る。これを素材として使えるかどうかを選別した後で料理する。ピアノは打楽器的な側面があるが、最初の音の立ち上がりをカットすると全く違う音に聴こえる。特に好きなのはピアノの音がノイズと混ざり合うかどうかのぎりぎりの瞬間。啓示 (?) 的瞬間と呼んでいる。
小林はこの編集手法から DNA のセントラルドグマを連想する。塩基の線型な連なりが転写され、イントロンが取り除かれエキソンが編集 (スプライシング) された後にようやくタンパク質に翻訳される。切り貼りは結局感性で行うしかなく、そこに個性が生まれる、と坂本は言う。中心の無い多義的な音楽を構想する坂本に対し、小林は古典音楽の知的な構造、文法の発明の偉大さを擁護する。坂本はやはり言語的なものは避けたいという。内面からの発露、expression というロマン、図式から自由になりたい。
(ここでスティーヴ・ライヒの "piano phase" を聴く)

この曲は同じフレーズをひたすら繰り替えすふたりのピアニストの位相が次第にずれを見せ、そこからライヒが意図的に構想したわけではない新たなメロディーが創発する。非常に宜しい。この説明に対し小林は反復、回帰という構造は古典音楽にも共通するものである、と言う。ソナタ形式も回帰するのだが、しかし戻った場所は同じではない、という感覚。
坂本も人間はただの反復、変化しないものには耐えられない性質を持っていると言う。彼が今後目指すのは DNA のエラーが進化であるように、音楽にもエラーを取り込むこと。アクシデントが面白さを生む。そしてそれは非人間 的でもある。茶道も同様できちっと決まりきった型があるなかで、茶室に枯れ枝が挿してあったりする。"CHASM" から 3 年経って色々と変わってきたので、インスタレーションで得た空間的なものを音楽の中に込めていきたい。
若い学生たちに言いたいのは、耳を開け、ということ。例えば電車の音は日本語では「ガタンガタン」と一言で言い表されてしまうが、実際は何十種類もの音が重なり合っている。満員電車の中でそういった多重的な音に耳を開くと何か新しいものが聴こえてくる。(まとめ終了)
 
坂本教授が音楽を脳科学、動物行動学、人類学的側面から捉えることに関心を持っていることは今回初めて知って意外だったと同時に、流石にロハスなだけの人ではないのだなあ、と最初から興味をひきつけられた。何を音楽と定義するか、と言う問題は言語の定義の問題とも重なってきており、小鳥の歌の構造とヒト言語の構造との類似/差異は今まさに議論の沸騰している分野である。また、言語と西洋古典音楽の構造の類似性については度々紹介したように Lerdahl & Jackendoff の生成文法アプローチ (参照:生成音楽理論) が扱っているが、実は遺伝子情報もバイオインフォマティクスの文脈では言語の文法との類似で捉えられており、ただのアナロジーを越えて、チョムスキーの文脈自由文法の理論を用いた遺伝子情報解析が行われている。
 

The language of genes.
Searls DB.
Nature. 2002 Nov 14;420(6912):211-7.

 
立体的構造を取る RNA には離れた部位同士に依存性 dependency があり、ローカルな遷移だけでは情報構造を捉えきれないのである。従って小林教授が音楽の構造性から遺伝子を連想したのも尤もなことで、言語-音楽-遺伝子 は機能的に或いは構造的にお互い関係しあってなんとも複雑かつ魅力的な複合体をなしている。
脱-西洋の音楽に関しては、もう何十年も前から同じことが言われているのであろうし、口先のレベルではもう袋小路なのかもしれない。聞いていてもやや退屈だった。そこは音楽の実践の中で開けていくのだろうし、音楽家とは結局それをやってしまう人種なのだろう。どんな理論で組み立てられた脱西洋、脱中心の音楽であっても最終的には身体で聴く、という次元が待ち構えているのであり、そこを震わせることが出来ないのであれば全く意味がない。聴くものが震えない音楽はただの空気の振動でしかない。そういう意味では作曲家としての坂本龍一とは別の、パフォーマーとしての坂本龍一について興味があり、その二つの次元をどうやって結び付けようとしているのかを坂本教授に質問したかったのだが、時間がなくって残念。加えて彼が非人間 性を音楽の中心コンセプトに据えているところは夏目漱石の非人情とも重なってきて面白い。漱石も西洋近代を知悉しながら西洋と東洋との烈しい相克に苦悩した人間だった。
ともかくとても面白い講義だったし、断片的に聴いた彼の音楽もとても良かったので『Chasm』をきちんと聴いてみたいと思った。
 
明日はニコラス・ハンフリーを聴きに、そして赤いファサードが評判のあまりよろしくないガエ・アウレンティ設計のイタリア文化会館を見るために 「第2回次世代文化フォーラム〜感情・身体・脳:人間知性と文化の進化〜」に行ってきます。
 

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

 
「赤を見る」の著者の講演が赤さで悪評高い建物で行われるのはどういう皮肉か。予定されていたアウレンティの講演は諸事情により中止らしい。むむ。
 
明日京都で行われる「科学方法論から生成文法を見る」も非常に興味があるのだけれど、時間と金銭の問題で断念。id:dlit さん、レポートできなくてすみません。