進化論的文学批評

 
The Literary Animal: Evolution And The Nature Of Narrative (Rethinking Theory)
The Selfish Gene
Inner Vision: An Exploration of Art and the Brain
 
 
 
 
 
 
 

Literary darwinism: textual selection
Whitfield J
Nature. 2006 Jan 26;439(7075):388-9

かつてのマルキシズム精神分析構造主義などがそうであったように、人間の行動分析に用いられるツールは全て文学批評のツールへと援用される運命にあるようだ。
Jonathan Gottschall は自分自身を文学的ダーウィニスト literary darwinist と呼び、「進化生物学の概念と経験的で量的な科学的な手法を用いて文学を研究するもの」と定義する。
20世紀中盤以降、文学批評とはもはや、何が正しい読みかを問う営みではなく、如何に読むかというテクニックへと変容した。しかしGottschallは近年の文学批評は無意味と似非科学の氾濫であると批判する。そして科学的な手法を用いることで、そのテクストが何を本当に言おうとしているか、を知ることが出来る、と考える。

暴力に溢れた叙事詩の世界は、希少な繁殖相手を巡り男たちが闘争を繰り広げ、首長だけが奴隷・繁殖相手としての女性にアクセス可能だった社会を反映している。ホメロス以降に書かれた全てのテクストも同様の分析が可能である。

 
Gottschall は世界各地の民話のデータベースを分析し、「勇敢なヒーローが美しい姫を救う物語」は(フェミニズム批評が言うような)西洋的家父長制に基づくものではないということを証明した。彼によれば世界中の大多数の民話は同様の性質を備えたものだという(Gottschall,J. & Willson, D.S. 編 『The Literary Animal: Evolution And The Nature Of Narrative (Rethinking Theory)』)。
「もし文学研究が検証可能で耐久性のある知識を創造するためには、そして、華麗なレトリックを用い膨大な知識を展開する者によって議論が終結に持ち込まれるのを防ぐためには、このようなアプローチが必要不可欠である」と Gottschall は主張する。
このあたりは、その方法論の是非を抜きにして、文学研究者にとっても耳の痛い話なのではないだろうか。しかし文学を人間の本性 human nature の資料として読む上では注意が必要である。
 
進化理論に関連してミームという概念が在る。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子 (科学選書)』"The Selfish Gene" の中で提唱したもので、遺伝子のように、文化も淘汰圧に晒されながら再生産を繰り替えすプロセスであるとする考え方だ。Nature 誌が意図したかしないかは別として、まさにタイトル(Textual Selection)にあるように、その時々の社会に受け入れられ再生産されたテクストだけがこの時代に残っているのである。この淘汰のプロセスを考えれば、ただ進化理論的に妥当なテクストだけが次世代へと受け継がれるはずはなく、その時代の倫理・規範による選択というものが当然、テクストの残存に影響を与えるはずである。この淘汰によって「そうあるべきである」(=テクストが倫理的・規範的である)が「そうである」(=テクストが残存する)に置き換わってしまうという、いわゆる自然主義の誤謬の逆プロセスが生じることに注意する必要がある。また遺伝子と同様、ミームも進化する可能性も考慮しなければならない。つまり残存するテクストは不偏のサンプルではなく、何らかの基準によって選択・改変されたものなのである。
 
進化心理学自体が再現性や反証可能性の面で疑問も少なくない段階で、それを文学批評に適用し科学主義を標榜するのは、ちと勇み足に過ぎるようだ。マルキシズム精神分析を用いた文学批評の轍を踏みかけているようにも思う。ただGottschallと共に『The Literary Animal: Evolution And The Nature Of Narrative (Rethinking Theory)』を編集した生物学者の D.S.Willson によれば、「文学研究者からは、進化概念への抵抗よりも量的手法に対する恐れが強い」という(笑)。
 
 
脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界 
 
 
 
 
 
 
おまけ
進化心理学が批評に援用可能なら、もちろん脳科学も負けちゃいない。茂木健一郎先生の一連の出版物は紹介するまでもありません。ただ、茂木先生は脳科学を真面目に批評に適用しているというよりは、叙情性に理知のスパイスを添えるのに脳科学が使われている程度ですね。小津安二郎への愛に溢れた評論などは、僕は嫌いではありません。その逆が高名な脳科学セミール・ゼキの『脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界』" Inner Vision: An Exploration of Art and the Brain "。はったりの利いたタイトルとは裏腹に、視覚処理過程に関しての丁寧な解説が多く、本当の意味での「美」と脳との関わりが扱われているわけではありません。もちろん美術評論としても興味深い記述は多いのですが、ある意味現在の脳科学の限界を見ることが出来る真摯な本でした。