南へ/エルスール


id:mikk さんのところで、渋谷ビクトル・エリセの旧作が上映されていることを知り、仕事は山積しているのだけれど居ても立ってもいられなくなり、21 時からの『エルスール』上映最終回に出かける。研究棟のエントランスのドアが開くと生暖かく甘い空気が流れ込んできて、一瞬季節を思い違う。渋谷へと向かう道の途中、ぽつりぽつりと雨が落ちてくる。
『エルスール』は、というよりエリセの作品は、記憶に関する映画だと僕は受け取っている。そして、その映像もまた、記憶というものの在り方をよく表している。窓からこぼれて来る淡く青い陽だとか、煙草の白い煙が拡がってゆくさまだとか、赤ワインの反射する鈍い光だとか、ストーリーよりもそういったディテールが見るものの記憶に強く刻まれるのだ。スペイン北部の柔らかく陰った風景が時の流れを全て包み込んでしまい、主人公エストレリャの記憶と僕の記憶とが交じり合う。エストレリャも、彼女の父も、記憶に囚われ躓くひとたちなのだけれど、同時に記憶こそが愛の対象となりうる、ということを体現している。ヘルダーリンの「わたしたちは影でないものなど愛せるだろうか?」という言葉がアデライダ・ガルシア=モラレスによる原作に引かれているのは象徴的だ。「記憶の中の父」の記憶の地である南スペインへ向かうエストレリャはそこで何を見るのか。不安と期待に満ちた彼女の表情に僕も背中を押される。
春の嵐に煽られながらハイネケンを流し込んで研究室に戻る。2 月に汗ばむなんて贅沢だ。これですぐに春が訪れるわけではないだろうけれど『エルスール』よろしく南へ旅立った気分に。