僕らの青春をおおげさにゆうのならば。

近代文学とは「青春」の発見/創出であった、とする三浦雅士『青春の終焉』には非常に賛同するところです。ところが「青春小説」とは(こないだ書いた『小さな恋のメロディ』みたいに)基本的には学校・社会などの権力に対する抵抗の物語なので、フーコーナショナリズムの生=権力に対しては対立的な立場にあります。でも、よく覚えてないんだけれど三浦の議論は近代(国家)は自らの創出のために国民文学を必要として、その過程で「青春」というフィクションが作り出された、という話だったように記憶しています(違ったかな)。とすると「青春小説」が示す権力への抵抗とは、あらかじめ権力の側に用意された安全弁だった、ということになるのでしょうか。60年代に生きられなかった僕にはひょっとしたら一生分からないのかもしれないけれど、「権力への抵抗」という「青春」は(インターナショナルなどの形で)ナショナルな権力に抵抗するグローバルな動きに見えるとしても、グローバリゼーションそれ自体ナショナリズムと両輪で動いている以上、こうした「抵抗」もあらかじめナショナルな権力によって用意されたものだった、ということなのかな。

友人のLisbon22くんの日記から。
昨日は夕方から、Lisbon22くんと下北沢のまるさんフーズで文学や青春について熱くキモく語ってきました。追い出さずにいてくれて、ありがとう、店員さん。
 
青春の終焉
 
 
 
 
 
 
そこで議論の続きをこちらで。Lisbon22くんは三浦雅士青春の終焉』の詳細をよく覚えていない、って断って書いているのに噛み付いて申し訳ないんだけど、ちょっとペシミスティックな感じで寂しく思ったので、僕なりの感想を。
 
僕のコメントしたいポイントは「フィクション」の概念と「権力」の擬人化についてです。
 
まずLisbon22くんの分野の独特の用語なのだろうと思うのですが、フィクションという言葉は少し強い気がします。「社会的に構築された虚構」というやつでしょうか。僕からすると、「概念」とか「カテゴリー」と単純に置き換えて読むとすんなり飲み込めるのだけれど。実際に「青春」に情熱を燃やした人たちにとって、青春はフィクションではありえなかったはずです。青春はまさに彼らの人生の現実であり、実存を賭けた営みだったわけです。三浦氏は青春の「虚構性」いついて以下のように語っています。

「青春が小説の主題だったのではない。人生こそが小説の主題だったが、その人生の核心は青春に他ならなかった。人間の生をひとつのまとまった物語と見る視点と、青春という概念を生み出した視点とは、まったく同じものだったのである。」(p.11)

ふむふむ。人間はフィクションを実在として生きる能力に秀でた出来る生き物なのだろうと思います。僕らの身の回りには、こういった意味での「フィクション」でないものなどほとんどありません。だからこそ、より良い「フィクション」を創造し、志向することがより良い生に繋がるのだと、中途半端なロマン主義かぶれの僕は考えます。そして三浦氏は青春がどのように若者を熱狂に巻き込み、そして荒廃していったかを、丹念にかつ愛を込めて描き出し、青春に準じた作家たちを突き放すようなことは決してしません。
三浦氏の議論に従えば「『青春小説』が示す権力への抵抗とは、あらかじめ権力の側に用意された安全弁だった」という思考は、やはり穿ちすぎな気がするのです。18世紀以来のロマン主義の結実が近代国家であり青春小説です。政治が青春を要求するのと相補うように青春は政治を要求していたのです。まさに「政治と文学は手をたずさえていた」(p.9)のでしょう。
 
ですから「こうした『抵抗』もあらかじめナショナルな権力によって用意されたものだった」という叙述は権力の擬人化が過ぎるんじゃないかな、と思うのです。このような擬人化は陰謀論めいた悲観的な思考に陥りやすいのでは、と思います。そもそも、フーコーの視点に立てば、権力は下部から生じるわけで、むしろ、支配するもの、支配されるものという古典的な二項図式は解消されるはずです。権力を振るうのは特定の個人でも集団でもありません(いや、僕は実際にはそんなことはないと思うのですが、とりあえずフーコーに従ってみます)。ですから「青春」というフィクションを機能させるような諸関係からナショナルな権力が生み出されるという分析も可能なわけで、やはり三浦氏が言うように「政治と文学は手をたずさえていた」という辺りが妥当である気がします。
 
そして確かにLisbon22さんも言うように、「抵抗」は権力の外部ではなく、内部に規定されるのですが、「抵抗」も固定された一点に生じるのではなく、諸関係の中に不規則に生じるのですから、権力はこれを完全に掌握することは出来ません。そして不規則に生じたばらばらの「抵抗」を戦略的に結びつけることによって革命は可能であるとフーコーは論じたのだと思います。
 
ということで、フーコーの視点を導入しても、それほど悲惨な結論には至らないかと思います。とはいえ、「青春」を支えたロマン主義に引導を渡したのは当のフーコーなのだから皮肉なものです。
 
専門外の分野に関して的外れなことも数々言った気がしますが、『青春の終焉』および、そこで扱われている青春小説の愛読者、そしてフーコーのミーハーなファン(これは自己矛盾しているんだろうか)として、「青春という抵抗」の(個人的な思い入れに依拠した)擁護を試みてみました。どうでしょうか。