イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』理論編Ⅰ
『記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム』、『偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命』などの著者でもある、気鋭の科学哲学者による社会構成(構築)主義に関する付かず離れずの冷静な分析。訳はやたら軽妙で読みやすいが、原書を読んだ友人に依ると、原文も皮肉・ユーモアたっぷりの読みやすい文体らしい。タイトルからして "THe Social construction of what?" とくだけている*1。
ハッキングは社会構成主義と科学*2との泥沼の争いをどちらかの立場に立脚して解決しようとしたりはしない。むしろ、それらの争いから冷静に距離をとることで、問題を整理し、そして両者が決して妥結することのないだろう係争点を明らかにしていく。それは結局プラトンとアリストテレスに遡る形而上学上の争点を反映したものであり、(ある意味謙虚な) ハッキングには解決しようのないものだという。
本書は原著にある「兵器研究」、「岩石」、「キャプテンクックの最期」の3章を割愛して (ひどい!)、全5章からなる。そのうち前半の2章を「理論編」、後半の3章を「実践編」として順番にまとめてみよう。今日はまず理論編Ⅰとして第1章【なぜ「何が」を問うのか】から。
社会構成主義の意図
社会構成主義とは何なのか?この難解な問題に対し、彼は「最初に定義をするな、代わりに意図を問え」という戦略をとる。ハッキングの分析によれば下の (1) こそが社会構成主義的主張をするものに共通した見解であるという。
(1) Xのこれまでの存在には必然性がない、ないしは、それが現在あるような仕方をしている必然性はまったくない。Xの存在ないし、今日のXのありようは、物事の本性によって決められているわけではない。端的に言って、それは不可避ではない。
(2) Xの今日のありようは、まったくもって悪いものである
(3) もしXが根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれの暮らしは今よりずっとましになるだろう。
そしていささか単純化された見方ではあるが、殆ど多くの構成主義者は (2)、(3) の論理的必然性を伴わない見解にまで進む。どの段階までコミットメントするかにより構成主義者は、歴史的−アイロニカル―改良主義的もしくは仮面はがし的―反抗的―革命的のいずれかのレベルに分類される。仮面はがし的構成主義とは、社会学者カール・マンハイムの用語に由来し、標的となった観念を論駁するのではなく、それらが「理論を超えて果たしている役割」を暴くことで、それらの力を殺ぐことを狙う立場である。
3つのタイプ
このように構成主義の各レベルの整理を終えたあと、ハッキングはいよいよ構成されるXに迫る。ハッキングがXに設ける3つの分類とは「対象」「観念」「エレベータ語」である。「対象」とは常識的な普通の意味で「世界の中に」存在しているものである。子供たち、子供という状態、自閉症、児童虐待、投球、寛大な行動、中流、恋に落ちる経験、ジェンダー、岩石、硫黄、遺伝子、クォークといった例が挙げられている。一方、「観念」とは「それについて議論されたり、誰かによって受け入れられたり、意味内容が明確にされたり、異を唱えられたりする、そういったもの」であり、グループ分け、分類(ないし分類法)、種(例えば、女性難民)といったものがあげられる。最後に「エレベータ語」。これはあまり良い命名とは思えないが、クワインの言う「意味論的上昇」*3によって生じた一群の言葉を指す。例えば、「真理」、「事実」、「現実」などなど。「エレベータ語は、むしろ、世界そのものについて、ないしは、われわれが世界そのものについて語ったり考えたりしている事柄について、何事かを主張するために用いられている」とハッキングは述べる。
「対象」と「観念」の区別にしろ、それらから1レベル高いところにある「エレベータ語」にせよ、こういった存在者の分類はハッキングも述べるようにごくごく荒いものである。しかし、それでもこの区別を念頭に置くことは重要である。なぜなら、「Xの社会的構成」を巡る議論においては、複数のレベルの存在者をこっそりと指し示していることが多く、また異なる存在者間の相互作用を意味していることが多いからである。
例えば障害が社会的に構成 (構築) されている、と述べる際、意味されているのは、障害そのもの (対象) なのだろうか、それとも障害というカテゴリー (観念) なのだろうか?事実はその両方であり、また対象と観念は相互作用するため話は複雑になる*4。議論の際には何を指して論が進められているのかをはっきりと確認する必要がある。
「観念」と「対象」の混同は著者すら「児童虐待」のトピックにおいてかつて犯したものだという。この2つを混同するとある X が(観念の上では)社会的構成物であり、かつ(対象としては)実在物(サールの用語を用いれば、存在論的に主観的であり認識論的に客観的)でもある、という曖昧な結論で誤魔化されることになる。
相互作用に関わる2つの問題領域
このように対象と観念とを分けて考えることで、それらの相互作用に関わる2つの問題領域が明らかになる。「女性難民」、「精神疾患」といった観念あるいは分類法は、その分類に属する事物と相互作用を及ぼしあう。人々は、自らがいかに分類されているかを自覚するようになり、それに合わせて、自らの行為を変えていく(これをループ効果と呼ぶ)。対照的に、クォークだとか核融合反応といった観念ないし分類法は、対象としてのクォークや核融合反応と相互作用を及ぼしあわない。それらは自己意識を持たないからである。自然科学と社会科学の根本的な違いもこの区別のひとつの表れだとハッキングは見做す。社会科学における分類は相互作用的であるのに対し、自然科学の分類はそうではない。
以上、このように整理してみると、「ジェンダーがセックスを既定する」という命題が、何故あれほどまでに議論に混乱を招いたかも、解りやすくなってくる(昨年のネット上での議論はmucskaさんの誰でも分かる「ジェンダーがセックスを規定する」の意味とその意義などを参照)。ジェンダーにしろ、セックスにしろ、「対象」と「観念」の2つのタイプとして捉えることが出来、議論においてはその2つが (時には無意識に、時には意図的に) 混同されているのである。また人間にはループ効果があり、社会的にせよ生物学的にせよ、どのように分類されるかによって、人々の振る舞いも変わっていく(ここがパフォーマティヴ概念と繋がってくる)。そもそもジェンダー/セックスに関する主題はハッキングの挙げた2つの問題領域の境界領域であり、最も構成主義の適用とその分析の難しい分野だ。
問題となった命題における「ジェンダー」をジョーン・スコット流に「性差に関する知や、その分節のあり方」 (=つまりハッキングでいう観念) として捉え、「セックス」を「生物学的な性差に関する観念」と捉えれば、この命題は非常にわかり易くなる。観念が観念を既定することに常識を逸脱する点はない。しかしこれは生物学的な性の実体 (対象) に関する言及が差し控えられており、幾分弱められた解釈である。この命題をよりラディカルに捕らえるならば、認識の外部に存在する「生物学的性」という実体すら認めないという解釈に至る。この問題に関しては第3章の科学に対する構成主義の分析でクォークを例にして論じられるが、ハッキングの分析では妥協点は見出されない。
*1:どうでもいい話だが、米国から短期留学してきている皿さん (学部4年生) にソーシャル・コンストラクションについての本を読んでいる、と話すと、ソーシャル・コンストラクション・オブ・ワット?と聞き返された(笑)。いや、それがまさにタイトルだよ、と答えると、流石、「ソレナラシッテルワ」とのこと
*2:社会構成主義に対立する立場をなんと呼ぶかは難しいところである。本質主義とは決して価値中立的な用語ではないし、そもそも自らを本質主義者と名乗る者など皆無、とのこと。
*3:ある事柄について語ることから、それを表す「語」について語ることへのシフト
*4:たとえばウェンデルによれば「結果として身体障害なるものを創り出したり(ないしは、そのようなものが創り出されたりすることを阻止したり)する、生物学的な事柄と社会的な事柄との相互作用を、私は、「身体障害の社会構成」と呼ぶ」。